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3月12日東京新聞にインタビューが掲載されました

【福島原発事故 その時私は】[3・12]双葉病院長 鈴木 市郎さん

◆置き去りにされた 救助の遅れ 亡くなった高齢者50人

地震で停電になったが、すぐ復旧すると思っていました。原発が危ないと知ったのは翌十二日の早朝。「急いで避難しろ」と大熊町の防災無線の放送があった。町役場に助けを求めるとバスが来て、患者二百九人と全職員が乗り込みました。
 残されたのは患者百二十九人と私一人。職員には「残ってくれ」と言いたかったが、津波で家が流された人もいた。「自分は最後の一人を送るまで残る」と笑って見送った。すぐに後続のバスが来ると思ってました。
 ところが午後に1号機が爆発した。役場を見に行くと、人の気配がない。「置いていかれた」と思った。
 近くに系列の介護老人保健施設「ドーヴィル双葉」があって、入所者九十八人と職員二人も取り残された。電話もテレビも使えません。不安でしたが、夜になって自衛隊員が来て「明日には車を手配できる」と言ってくれました。
 一晩ならなんとかなる。でも、停電で真っ暗だから、顔色も分からない。頬に自分の頬を寄せて無事を確認しました。患者のそばを離れられなかった。
 翌日、救助は来ませんでした。車で助けを求めて周辺をさまよっていると、パトカーに出合った。「早く助けてくれ」と頼んだ。また裏切られるかも…と思い、名前や車のナンバーを確認した。
 後で双葉署長が病院に来てくれました。でも、車の手配が難しいからと、「今日の救出は無理」って告げられた。思わず「このままでは百人亡くなる」と怒鳴っていました。
 その夜、衰弱で一人目の患者が亡くなりました。翌朝には二人。このままだと本当に数十人単位で亡くなると思いました。
 十四日朝。突然、自衛隊から救助のバスが来ました。患者三十四人とドーヴィルの入所者九十八人全員が避難した。隊員は「すぐに後続が来る」と言ってくれた。だけど、3号機が爆発。隊員は「(現地対策拠点の)オフサイトセンターに行かなくては」と言っていなくなり、また約束は破られました。
 このバスが避難所のいわき光洋高校に到着したのは夜です。直線で三十キロの距離を二百三十キロ、十時間かけて移動しました。バスの車内で三人、到着後の高校の体育館で十一人が亡くなった。除染のためいったん北上した後、百人を超える患者を収容できる施設を求めて原発を避けるように移動したためだと、後で聞きました。
 結局、全員が避難したのは翌十五日から十六日にかけて。当時、私は警察から「緊急避難だ」と原発から二十キロ離れた割山峠まで連れ出されていた。「2号機が危ない」という情報が福島県警に入っていたそうです。
 救助後、県は私たちが「患者を置き去りにした」と発表した。
 私は1号機の爆発も3号機の爆発も気付きませんでした。とにかく無我夢中だった。
 三十一日までにドーヴィルと合わせて、四百三十六人の高齢者のうち五十人が亡くなりました。原発から五キロ圏には、ほかに双葉厚生病院と大野病院がありますが、両方とも十三日までに避難している。どうしてうちの救助が遅れたか。どうして二百三十キロの移動になったか。
 あの後、弁護士に依頼して調査を始めましたが、いまだに分からない。五十人は救えた命だった。もう一年たちますが、まだ現在進行形なんです。
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